氏名
中後 淳 (ちゅうご あつし)
生年月日
1970年1月12日
身長
162cm (ちっちゃいです)
体重
60kg (近頃増大中につきダイエット中)
血液型
B型 RH- (ちょっと珍しい)
特徴
ちっちゃい (背も手足も)
親指が異常に短い (職人指というらしい)
髪の毛が多くて硬い (まとまらなくて大変)
性格
普段はとてもおとなしい (うつ状態)
たまにとっても大胆 (そう状態)
略歴
昭和45年1月12日富津市数馬に兼業農家を営む建具屋の長男として生まれる
昭和57年富津市立湊小学校卒業
昭和60年富津市立天羽中学校卒業
昭和63年千葉県立木更津高等学校卒業
平成元年東京大学理科I類入学
平成5年東京大学工学部機械工学科卒業
平成7年東京大学大学院修士課程修了
平成7年新日本製鐵株式会社入社
平成11年新日本製鐵株式会社退社
平成12年富津市議会議員選挙初当選
平成16年富津市議会議員選挙2期目当選
平成18年富津市議会総務常任委員長
平成20年衆議院千葉県第12区公認候補内定
平成21年衆議院議員初当選
現在
新党きづな 幹事長代理
衆議院議員経済産業委員会委員
郵政改革に関する特別委員会委員
南総サッカー協会副会長
趣味
音楽、ドラム、ゴルフ、旅行、祭囃子
好きなもの
焼椎茸、ブロッコリー、新米、新海苔、新鮮な魚介類、
猫(とにかく大好き)
嫌いなもの
セロリ (食べると吐きます)
ゲジゲジ (書いてるだけで気持ち悪い)
おいたち
幼少期 (1970~1976)

3才 家の仕事場にて
ノミを持って仕事を手伝っている
つもりらしい
田舎暮らしの家で牛と友達だった頃
1970年1月12日富津市数馬に生まれる。
家は父一人で建具屋を営みながら、米作中心の農業も行い生計をたてており、マキのお風呂にレンタンの掘りコタツで、ずいぶん昔ながらの生活をしていたように思います。
仕事で余った木っ端で遊んだり、隣家で飼っている牛をかまったり、虫を捕まえて図鑑と見比べたりしていることが多かったことを覚えています。
小校生期 (1976~1982)
湊川と湊小学校が遊び場でした
低学年の頃はスカートめくりや人がやらない(言えない?)ようなことばかりやってました。高学年になると、少しおちついてたかもしれません。
学校では図画工作が得意で2年生から6年生まで5年連続で作品が入選しました。児童会運営委員や学級委員長なんていうのもやりました。
6年生の秋に父が脳内出血で倒れました。大手術の末一命はとりとめ、何とか元気になりましたが、母一人がパートで家計を支え経済的には大変厳しくなりました。精神的にはこれまでの人生で一番大きな転機だったと思います。

10才 愛車999号と
何故かニューヨークヤンキースの
野球帽をかぶってました。
中学生期 (1982~1985)

14才 修学旅行にて
中学では校則で坊主でした。
親友との出会い
中学2年の時、友達の影響でファッションや洋楽に興味を抱く都会かぶれの田舎少年へと変わりました。彼らが中学以来ず--っと一番の親友(悪友?)です。
家で全く勉強しなかったせいか、英語が苦手になり、得意科目は理数系に偏りました。意外かもしれませんが主要5科目より、美術,技術,体育,音楽の方が成績は良かったです。生徒会副会長やクラス会長などもやりました。
中3の時に祖父が倒れ植物状態になりましたが、以来祖母が14年以上付っきりで介護をしてました。祖母には色々なことを教わりました。
高校生期 (1985~1988)
バイトとバンドとコンサート
部活も勉強もせず毎日毎日中学の友達とたまり場で遊んでました。
休みの日はバイトをするか、東京に行って遊んでることが多かったです。中学で聴いてた洋楽はヘビメタと言われるジャンルに偏り(ヘビメタ狂でした)、バイトでためたお金で、ギターやドラムを買ってバンドを組んだり、学校をサボってコンサートに行ったりしてました(高2のときは月1回ペース)。
高校ではクラスで中の上くらいの成績でしたが、千葉大,明治大など5校受験し、全滅で浪人が決まりました。

17才 友達とたまり場で
中学の友達の家がたまり場でした
予備校生期 (1988~1989)
1番努力した1年
津田沼の代々木ゼミナールの国立理科系コースに1年間通いました。
中学の友達が就職で東京に出てしまったこともあり、この1年だけは真剣に勉強しました。夏休み後から成績が急激に伸び始め、12月には千葉大志望だったものが、1月には東工大に変わり、共通一次試験を受けた後に、思い切って東大を受験することに決めました。5校受験し今度は全て合格し、東大に進学することになりました。
この1年間はとても苦しかったですが、良かれ悪しかれ、その後の人生を左右する大きな1年でした。
大学生期 (1989~1993)

21才 実家の物置で
もらったレーシングカートを
レストアした時の記念
バブル絶頂期の東京学生生活
東京では母の姉の家(練馬区石神井)に居候させてもらい、バイトと奨学金で生活してました。中学の友達や、大学の友達とずいぶん色んなことを経験しました。バンド活動も再開し学園祭やライブハウスで演奏してました。
研究室はヒューマンウェア工学研究室(JR東日本寄附講座)で、卒論は“ソーラーカーの企画・設計”でした(鈴鹿や能登のソーラーカーラリーに出場したりしました)。
企業(KOMATSU)出身の草加浩平先生と、工業デザイナーの山中俊治先生という大学では珍しい先生方に恵まれ、充実した大学生活を送ることができました。
就職する予定でしたが、大学の推薦枠で大学院に進学できることになり、月尾研修室(システム工学研究室)に進学することに決めました。
大学院生期 (1993~1995)
初めての一人暮らし
大学院時代は母の実家の知人所有の空部屋(北区王子)に住まわせてもらい、やはりバイトと奨学金で生活してました。
一人暮らしになり、生活のリズムは乱れまくってました。
修士論文は“感性情報抽出のための音声情報処理システムの研究” で、苦手だったコンピュータを、この2年間で克服した気がします。
教授の月尾嘉男先生(現東京大学名誉教授,元総務相総務審議官)には、工学についてはほとんど何も教えてもらいませんでしたが、もっと大切なことを教えていただいたと感謝しています。
就職は地元に帰って将来を考えたいと思い、新日鉄に決めました。

24才 イタリアにて
卒業旅行で行った
ミラノサンシーロスタジアムで
サッカー観戦
サラリーマン期 (1995~1999)

27才 昇仙峡
富士ロックフェスティバル
のあと昇仙峡に行って
写したものです
大企業での修行時代
希望通り実家に近い富津の新日鉄総合技術センターに配属になり、君津製鉄所や八幡製鉄所の大きなプロジェクトで、プラントエンジニアリングの仕事をしていました。
設備計画や設計・発注,予算管理,工程管理など、大変遣り甲斐のある仕事でした。
休日は東京から帰ってきた中学時代の友人や会社の友達と過ごしていました。
丸4年間勤めましたが、サラリーマン生活への疑問と、地元で地元のために働きたいという気持ちから、さんざん悩んだ挙句に、退職を決めました。
転換期其の壱 政治の道へ (1999~2000)
会社を辞めた後は、データベースやホームページの作成による収入と失業保険で生計を立てながら、自立するための試行錯誤でした。
富津でシステム系の会社を立ち上げるのは厳しい状況でしたし、自分と同じ年代の富津で働きたい人達が富津で働く基盤のようなものを作るためにはどうしたらよいか考え、政治家として地域活性化に取り組むことが、厳しいけれども一番の正攻法であるという結論に達し、2000年4月の市議会議員選挙に立候補する決意をしました。

転換期時代の事務所
ここをあじとに
将来のことを考えました。
富津市議会議員期 (2000~2008)

30才 初めての一般質問
当選後初めての議会で
質問しました。
この時の緊張感は
今でもはっきり憶えています。
“三十にして立つ”ではありませんが、自分の進む方向を確立した時期でした。
いわゆる地盤(支持母体)・看板(知名度)・カバン(資金)がほぼゼロの状態から、市議会議員に立候補し、2期8年間、地域社会にどっぷりと使って、たくさんの本当に身になる経験と人間関係を作ることができたように思います。地域のために自分が何をすべきか試行錯誤を重ね、市議としての8年間の経験を活かし、地域のため日本のために頑張る決意で国政を目指す覚悟に至りました。
転換期其の弐 国政への挑戦 (2008~2009)
保守系(自民党系)無所属という立場で市議として活動しながら、日本の借金は規律なく積み上げられる一方、地域はどんどん疲弊し格差は拡がり、社会不安は増大しているように感じられ日本全体の大きな方向転換が絶対に必要と確信するに至りました。
そんな時、民主党から衆議院議員への挑戦のお声かけを頂きさんざん悩んだあげく、しがらみを断ち切り一大決心をする志を立てました。大変厳しい選挙戦でしたが、人間的にもひと回り成長する機会を与えていただき、比例復活ではありましたが、初当選させていただきました。
衆議院議員として (2009~)
小学校6年生のときに父が倒れてから、家族は親戚や両親の友人に助けられ、東京での生活も親戚のおじさんやおばさんに助けてもらい、いつも楽しく過ごさせてくれた中学からの友人がいて、本当に本当に頑張って家を支えてきた母がいました。経済的には大変厳しい時期が続いたはずなのですが、たくさんの人に支えられ、本当に恵まれた環境で、大学進学や新日鐵の退職、市議会議員立候補、そして今回の国政へ挑戦し、衆議院議員として活動させていただくなどある意味わがままに自分の方向転換を行ってきました。
30代最後の年に衆議院議員に当選させていただき、”四十にして惑わず”という境地まで達してるとはまだまだ思えませんが、ようやく私のなすべきことがはっきりと見えてきたように思います。
私のすべきことは、今まで皆さんにいただいた貴重な経験と知識を、少しでも社会の役に立てるためにお返しすることと信じて、今後ますます努力していきたいと思います。
活動の様子

(上)
市議会では一般質問を核に
活動を展開
(下)
市議として定期的に
活動報告会を実施

(上)
消防出初式で操法演技
披露の準備中
(下)
鋸南町で行われた少年
フットサル大会にて

(上)
地元のお祭りで地区代表
としてお囃子を披露
(下)
かずさYOSAKOI
木更津舞尊に参加
ちゅうごあつしの市議会議員当時活動の軌跡については市議会議員当時のホームページでご確認いただけます。
ぜひ、ご覧ください。
富津市議会議員 中後あつし情報局→